フランク・ウェストン・ベンソン (1862-1951)
フランク・ウェストン・ベンソンは、マサチューセッツ州セーラムの成功した綿商人の息子であり、ボストン美術館付属美術学校でオットー・グルンドマンに師事した。1883年、ベンソンはボストンの同郷人エドマンド・ターベルと共にパリへ渡り、多くの若きアメリカ人を惹きつけたアカデミー・ジュリアンで研鑽を続けた。
ボストンに戻ったベンソンとターベルはアトリエを共有し、長年にわたり美術館付属美術学校で教鞭をとった。そこで彼らが指導した数多くの若手芸術家たちは後に「ボストン派」と呼ばれ、その作品は長きにわたる文化的支配の晩秋を迎えつつあったコミュニティの気風や慣習を反映していた。 アイルランド系カトリックの台頭と経済的影響力の衰退に直面したボストン・ブラフミンたちは、WASPエリートの権威を維持しようとする徒労に終わることとなる努力を続けた。彼らの衰退が生んだ希望、幻想、不安はボストン派の絵画に描かれた。 上品な伝統が再確認され、エリート階級の女性たちの神聖さと優雅さが彼らのキャンバスに描かれた。ボストン派の絵画の多くはジヴェルニーの軽やかで力強い筆致の影響を受けていた。ベンソンやターベルを含む数人の芸術家は、特に空間構成と光の配分への関心において、フェルメールの「再発見」に大きく影響を受けた。
ベンソンの最も印象派的な作品は1895年から1910年の間に制作された。薄手の夏用ドレスをまとった娘たちを太陽の光が降り注ぐ野外で描いたこれらの絵画は、無邪気な世界における理想化された若い生き物たちを描いている。
1897年、ベンソン、ターベル、そして同じくボストン出身のジョセフ・デ・キャンプは、次第に保守的になりつつあったアメリカ画家協会を離れ、「十人のアメリカ画家」の創設に協力した。この「十人」は様式的に多様な集団であったが、全員が当時の印象派の影響をある程度受け、サロン制度が提供するよりも親密な環境で展示を行うことに動いた。
1915年以降、ベンソンは版画制作に注力し始めた。熱心なスポーツマンであった彼は、日本の絵画の大胆な非対称性に影響を受けた水鳥や鴨猟のエッチング作品を制作した。
(americanart.si.edu)

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